かなふくな日々ブログ

NEW 社長のブログ 2026.03.12

AIで再現すれば「供養」になるのか? 亡き人を想う営みを『外部委託』してはいけない理由

AIで再現すれば「供養」になるのか? 亡き人を想う営みを『外部委託』してはいけない理由

みなさま、こんにちは

 

相模原市の葬儀社・神奈川福祉葬祭(葬儀のかなふく)の鈴木です。

 

最近、ニュースやネット記事で「AI故人」という言葉を耳にすることが増えましたね 

 

亡くなった方の生前の音声データや写真、動画をAIに学習させて、まるで本人がそこにいるかのように会話ができるというものです。

 

技術の進歩には目を見張るものがありますし、大切な人を亡くした遺族の「もう一度会いたい、話したい」という切実な願いに応えようとする試み自体は、一つの形かもしれません。

 

しかし、葬儀という「生と死の境目」に20年立ち続けてきたぼくの中に、拭いきれない強い違和感があるんです。今のAI故人というプロダクトは、まだ人間が「これなら納得できる、お金を払いたい」と思えるレベルに達していないという技術的な話だけではありません。

 

もっと根本的な、「死者を弔うとはどういうことか?」という人間としての本質的な部分で、何かがズレている。今日は、そんな「AIと供養」について、ちょっと深く、ぼくの魂の叫びをお話しさせていただきます 

 

■弔いとは、自分の中での「自己生成」である

そもそも、ぼくたちが「亡き人を想う、偲ぶ」という営みは、一体どこで行われているのでしょうか 

 

それは、AIのサーバーの中ではなく、ぼくたち自身の「体の中」なんです 

 

大切な人を亡くしたあと、ぼくたちはふとした瞬間にあの人を思い出します。

 

「あの人なら今、この景色を見てなんて言うかな」

「あの人はこの香りが好きだったよね」

「あの人の手は、握ったときにあんなに温かかったな」

 

目に見えなくなった、触れることもできなくなった存在と向き合うとき、ぼくたちは五感をフル回転させて、自分の中に「あの人」を創り出そうとします。

 

これをぼくは、「自己生成」と呼んでいます 

 

自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の記憶をたどって、亡き人の面影を自分の中に再現していく。この「思い出す」という地道で、時に苦しく、時に温かいプロセスの連続こそが、グリーフケア(悲嘆の癒え)そのものなんです。

 

ゆっくり、ゆっくりと、自分の中で「あの人」を再生し続けることで、やがて亡き人と自分自身が一つになっていく。そのプロセスを経て初めて、ぼくたちは悲しみを和らげ、新しい日常へと踏み出すことができます。

 

ところが、AIで故人を再現するということは、この「自分の中で想う」という大切な営みを、外部の機械に「外注(アウトソーシング)」してしまうことにならないでしょうか。

 

自分で汗をかいて、涙を流して、心の中で紡ぎ上げるべきプロセスを、ポチッとボタン一つでAIにやってもらう。それは一見、心の救済に見えるかもしれませんが、実は人間が本来持っている「自ら癒える力」を奪ってしまうことになりかねない。ぼくはそう危惧しています。

 

もっと言うならば、外注した弔いに、人間は満足を覚えるどころか、違和感や物足りなさしか残らないのではないか、とすら考えています。

AIで再現すれば「供養」になるのか? 亡き人を想う営みを『外部委託』してはいけない理由

■精巧さがアダとなる

AI故人の目指す方向は、常に「よりリアルに、より精巧に」です。本物と見紛うばかりのAndroidや、滑らかに喋るCG。しかし、ここに大きな落とし穴があります 

 

複数の研究者や学者が提唱している、非常に興味深い説があるんです。

 

亡くなった方をかたどる際、最新技術を駆使して「本物そっくりに作ったアンドロイド」と、あえて少し作り物感を残した「素朴な人形」。遺族はどちらに対して、より深く、温かな感情移入ができるのか。

 

これ、実は精巧であればあるほど良いわけではなく、「明らかに人形だとわかる、少し余白のあるもの」の方が、故人を偲ぶ力を引き出しやすいと唱える専門家たちが少なくありません。

 

なぜだと思いますか? それは、「余白」があるからです 

 

パッと見て「あ、これはお母さんを模したお人形だね」とわかる程度の不完全さだからこそ、残された家族は、自分の記憶を使ってその「隙間」を埋めようとします。人形の向こう側に、自分の知っている本物のお母さんの笑顔や声を、自発的に投影できるんです。

 

一方で、あまりにも精巧に作られたAIやAndroidは、その「余白」をすべて埋め尽くしてしまいます。

「お母さんの声はこうです」「喋り方はこうです」とAIに100%提示されてしまうと、ぼくたちの想像力が働く余地がなくなってしまう。提示された「偽物の正解」に圧倒されて、自分の中にある「本物の面影」と対話することができなくなってしまうんです。

 

これは、日本の伝統的な供養の形を見れば一目瞭然です。

 

お位牌、仏壇、お墓。これらは、亡くなった方の姿を全くかたどっていませんよね。極めて抽象的でシンボリックなものです 

 

でも、あの黒いお位牌に向かって手を合わせるとき、ぼくたちはその向こう側に故人の姿を思い浮かべようと、意識を活発に駆動させます。抽象的でシンプルな「シンボル」だからこそ、ぼくたちの頭と心、そして体全体を使って、故人を「生成」するための最高の装置として機能するんです。

 

今のAIが進もうとしている「より精巧な再現」は、この供養の本質的な出発点からして、大きくズレていると言わざるを得ません。

 

■五感と「八識」——AIには届かない領域

もう一つ、AIがどうしても超えられない壁があります。それは、人間の「感覚」の深さです。

 

仏教には「唯識(ゆいしき)」という思想があります。人間がこの世界をどう認識しているかを説いたものですが、そこでは目、耳、鼻、舌、身(触覚)、意(意識)の「六識」に加え、さらに深い「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)」という合計8つの感覚器官(八識)があると考えます。

 

AIが得意とするのは、せいぜい視覚(目)と、言語領域としての意識(意)の一部だけです。

 

しかし、ぼくたちが「人肌恋しい」と感じるとき、あるいは「あの人の気配」を感じるとき、それは視覚や聴覚だけで判断しているわけではありません。

 

肌に触れたときの体温、衣類から漂うかすかな香り、部屋に満ちる独特の空気感……。そうした目に見えない、言葉にならない膨大な情報が、ぼくたちの深い意識(八識)に刻まれています。

 

亡くなった人というのは、もう「目に見えない存在」になったんです 

 

それなのに、AIを使って無理やり「目に見える形」に引き戻そうとするのは、生命の摂理、宇宙の摂理に逆らっているような気がしてなりません。

 

目に見えなくなった人を、目に見えないまま、自分の心の中で大切に育んでいく。それが「成仏」を祈るということであり、残された側の「覚悟」を決めるということではないでしょうか。

 

AIが提供する「疑似的な再会」は、視覚と聴覚と意識だけに偏った、あまりにも片手落ちなコミュニケーションです。そこに、ぼくたちの深い悲しみを預けるのは、あまりに危ういと感じるのです。

AIで再現すれば「供養」になるのか? 亡き人を想う営みを『外部委託』してはいけない理由

■これからの「弔い」とテクノロジーの距離感

もちろん、ぼくはすべてのテクノロジーを否定しているわけではありません 

 

実際に、グリーフケアのプロセスというのは、とても階層的で、複雑です。

 

お葬式を終えたばかりの頃は、まだグリーフが深く、癒えることのない生々しい痛みが遺された家族を苦しめます。そんな時、どうしても寂しくてたまらない瞬間に、AI故人が力を発揮することもあるでしょう。たとえそれが疑似的な対話であったとしても、一時的にご家族の悲しみを癒し、痛みを和らげてくれるツールになる、現実的にそのような活用は可能だろうと考えています。

 

ただ、やがてはAI故人という「外側のツール」を卒業し、自分自身の心の中で故人様と深く語り合うフェーズへと、少しずつ移っていく日が来るだろう、と予測します。

 

人間って、何でもかんでも「便利に」「楽に」「リアルに」すればいいというものじゃないようですね 

 

お葬式も、その後の供養も、実に「手間」がかかるものです。わざわざお墓参りに行く、わざわざお仏壇を掃除する、わざわざあの人の好物をお供えする。この「わざわざ」という手間こそが、実はよかったりするんです。

 

AI故人は、その「手間」を省くものです。いつでもスマホを開けば会える、いつでも喋れる。でも、そうやって手軽に手に入れた「言葉」に、果たしてどれほどの重みがあるのでしょうか。

 

「あの人なら、なんて言うかな……」と、静寂の中で自問自答し、ようやく自分の中に降りてきた答え。それこそが、本物の故人からのメッセージだとぼくは思います。

 

AIが精巧になればなるほど、世の中に普及していく可能性はあるでしょう。でも、それは「供養」の代わりにはなりません。あくまで「過去のデータの再生機」に過ぎないということを、ぼくたちは忘れてはいけないのではないでしょうか。

 

■目に見えないからこそ、永遠に一緒にいられる

最後にお伝えしたいのは、目に見えなくなった存在と向き合うことは、人間にとって非常に崇高な営みだということです。

 

人肌が恋しい、触れたい。でも会えない、触れられない。その痛みを感じながらも、目に見えない相手を想い、自分の中でその存在を育てていく。このプロセスを経て、ぼくたちは本当の意味で故人とひとつになれます。

 

AIという「外側の形」に頼らず、自分の「内側の力」で故人を想うこと。不完全で、余白だらけの思い出を、一生かけて自分の心で補完し続けていくこと。

 

それこそが、人間が人間たるゆえんだと思うんです。

 

かなふくの鈴木は、これからも皆様が「自分の心」で大切な人と向き合えるよう、その「余白」を守り続ける葬儀社でありたいと思っています 

 

テクノロジーがどれだけ進化しても、人間の心の痛みと、それを癒やす「想う力」だけは、機械に譲ってはいけない。そう強く願っています。

AIで再現すれば「供養」になるのか? 亡き人を想う営みを『外部委託』してはいけない理由

本日も、ぼくの長い独り言にお付き合いいただき、ありがとうございました。

大切な方を想うその心、どうぞご自身の体の中で、大切に育んでいってくださいね。

 

目に見えない存在とどう向き合うか。そんな哲学的な悩みも、お気軽にお聞かせください。

 

【フリーダイヤル 0120-82-0333】

 

葬儀のかなふく(株式会社神奈川福祉葬祭)

代表取締役  鈴木 隆

PROFILE

神奈川県相模原市にある「日本一小さな葬儀屋さん|株式会社神奈川福祉葬祭(葬儀のかなふく)」の代表取締役社長。1971年東京都大田区生まれ。神奈川県相模原育ち。
小さい時から人になにかしてあげたがりで、喜んでもらえる顔を見るのが大好き。
◇趣味:読書
◇座右の銘:『我以外皆師』
◇好きな映画俳優:ブルース・リー 
◇特技:沖縄剛柔流空手初段
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